守りたいもの 

6ee6a26232366fb9efcab9733efca1c8 藤村おとはさんからのエピソード

2016うちの子ハロウィン企画にこっそり参加です*
お題「願望」
■主人公は子供の頃虐待を受けていた、という設定です。露骨な描写はありませんが苦手な方はご注意ください。


 ──もし、あの日、母さんが望まぬ妊娠をしていなければ、俺は生まれなかったのに。もし松下家が裕福だったなら、俺は長く苦しむ必要もなかったのに。

 大きくなるにつれて知識も増えていく。思春期の男子らが騒ぎ立てるような性教育ですら他人事ではなくなっていく。
 雅に父はいない。母は教えてくれなかったし、雅も尋ねようとはしなかった。尋ねたら立てなくなるまで殴られて、どれだけ泣き叫んで謝っても消して許してはくれない事を知っていたから。
 彼は望まれない子だったのだ。身籠った途端彼氏に逃げられ行き場をなくし、経済的にも中絶することなどできずに、雅はこの世に生を受けた。

「お前なんか消えちまえ」

随分と昔の辛い記憶を掘り返してしまったことに気が付き、不安定に揺れる心を落ち着かせるために、再びカッターを手にとって、傷痕だらけの左手に当ててみる。
 これは彼が死にたいと思った数。これは彼が生きようと思った証。
 カッターを持つ右手を引いてみるが、表の皮が切れて白く線が残っただけで傷にはならない。血は出ない。自傷をするにはいささか他人と関わりすぎた。認めてしまうのが怖かったのだ。自分を生かすのは痛みじゃなくて人の心の暖かさなのだと。

「もし俺がまともな家庭でまともな人間として育っていたら?」

気を紛らわせるために自問自答を繰り返す。

「もし俺があの時事故にあっていなかったら?」

「もしあの時児相に保護されていなかったら?」

「……もし俺が、生まれていなかったら?」

 そこまで考えて、少し冷静になる。もし生まれたのが自分じゃなくて、他の子だったら、それがか弱い女の子だったら、その子も自分と同じように虐待されていたら……?他人が苦しむくらいなら、いっそこんな出来損ないが虐められていた方がいい。そもそも、苦しい中で死なずに生きた自分は出来損ないじゃないんじゃないか、それこそ強者なのではないか!

 もし生まれていなかったら。その問いには、自分は負け犬になってしまうのだと答えよう。
 もし保護されていなかったら。その問いには、自分は犯罪者になっていただろうと答えよう。
 もし事故にあっていなかったら。その問いには、今の仲間たちに会えなかっただろうと答えよう。
 もしまともな人間として育っていたら。その問いには、そんなもの俺じゃないと答えよう。

 欠点だらけの自分ですら、こうして存在意義を認めることができるようになった。まだまだ世界は嫌いだけれど、着実に進歩していっている。ゆっくりだけれど成長している。不完全な方が雅なんだ、と。欠陥品の方が雅なんだ、と。自分が自分であることをいつか正面から認められる日が来るように。
 ただ一つの願望は、生きる意味を与えてくれた、広瀬の家へ帰りたい。帰って、笑って、ただいま、ありがとう、と言いたい。それには鎖国が解かれるまで戦い続けなければならない。帰るその日まで生きなければならない。楽しかった思い出を持ち帰るために、今の仲間を誰も死なせてはいけない。誰も悲しんではいけない。

「俺には守るものが多すぎだな」

 膝に乗ってきた黒猫はゴロゴロと喉を鳴らしながら丸い瞳で雅を見上げていた。


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